2分の1カントリーライフ

生物多様性を自宅の庭に具現化した野草ガーデン製作中!文明の恩恵にあずかりつつ、体の野生を忘れない暮らしを目指します。

迷うとき、人は・・・

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信仰を貫くとはなんと難しいことか。

あやうく挫折するところだった。

自分の考えに従うか,神のお考えに従うか,揺れ動いた一週間。今の状況に耐え続けることが,自分にとって不利益に思え,あやうく神に背きそうになった。

自分の考えをよくよく吟味すると,やはり自分の満足や欲望に起因していることに気付く。自分を正当化するために,自分の行動についてあらゆる理由・原因そして未来を見つけようとするが,結局,薄々感じている自分の間違いを誤魔化し,自らを納得させるための理由を見つけようとしているに過ぎないことに気付く。

人は迷う。どちらが正しいのか,あるいはどうすればよいのかわからない時,自分の判断がどれだけ当てになるというのだろう。もちろん,信頼できる知人や人生の先輩に相談するのもよいだろう。私自身何度もそうしてきた。しかしどうしても,自分を贔屓してしまう。相談相手も然りである。自分を満足させ,納得させ,後押ししてほしいだけなのだ。

その点,宗教(神の教え)は違う。万人に平等である。そして,少なくても一個人の価値基準よりは何百倍も普遍的である。自分または個人の意見に比べ,どれだけ頼りになることか。

心の弱い人が宗教に走る,というのは大間違いで,心が強くなければ,それをやり通すことはできない。確かに,きっかけは大きな苦しみ悲しみから逃れるため,慰めを求めて宗教にすがることから始まる場合が多いだろう。しかし,宗教は,友達のように悩みを無条件で聞き入れ慰めてくれるばかりではない。ちゃんと教えがあるのである。「おきて」とも言える教えである。キリスト教でいえば「愛」である。慰めてもらうだけなら相手は誰でもよい。しかしそれは,一時の慰めや満足,自分の喜びや幸せなのだ。

もし,自分も含む皆の幸せと,永遠に続く満足を得たいなら,神の教えに従うほうが正しいのではないのだろうか。「愛」ある行動をとることは,誰にも否定できないのだから。何度も何度も挫折する私を,神は許してくださる。ゆるがない信仰を持てる日が来ますように。まだ,迷ってますけどね(^_^;)